あなたは知っていますか? 空襲後のB29を生で見たお笑い芸人

あなたは知っていますか? 空襲後のB29を生で見たお笑い芸人

今回お話を伺ったのは、サンミュージック所属のお笑いコンビ「めいどのみやげ」のティーチャさん。世界広しといえども、第二次世界大戦を経験した現役のお笑い芸人は、ティーチャさんを差し置いて他にはいないだろう。もはや重要文化財と呼んでしまっても過言ではないかも知れないティーチャさんに、野球の指導に明け暮れた日々から健康の秘訣まで、気になっていた質問をぶつけてみた。

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―――中高大、コーチ経験を含め42年間野球をしていたとお伺いしました。監督されていたチームはどちらだったのでしょうか?

 

母校の日出学園高校です。73年に東京大会の監督で出ました。普段は一回戦ボーイなんですけれどもね。欽ちゃんも出てる高校です。

 

芸歴8年目の若手、だけど欽ちゃんの先輩

 

―――つまり、欽ちゃんの先輩ということですね?

 

6個上です。

 

―――なるほど。ちなみに、野球はどこをやられてたんですか?

 

ピッチャーでした。20歳から大学の野球部に入ったのですが、自分がいた理工学部は2年から校舎が変わってしまうので、そのせいで(部活に)いけなくなってしまったんですよ。その時くらいから、選手ではなく指導者になりたいと思い始めました。

 

―――そういう方は当時は珍しかったのでは?

 

ええ。まだ日体のOBも監督になったりしていない頃でした。僕が30歳の時は、免許なしで日大の明誠っていう所の監督をやっていました。専門が理工学部だから、教職課程がなかったんです。免許持っていないから、あんまり強くするとばれちゃうので大変でした。ずっとそうしている訳にはいかないので、32歳の時に初めて教員免許を取りました。それから、また野球の指導がしたくて、母校に戻りました。

 

―――じゃあ、もう野球だけ?

 

柔道部のOBでもあるんです。大学2年生から(野球部に)通えなくなってしまったので、そこから柔道に。稽古場が水道橋で、校舎は御茶ノ水だったので、通いやすかった。

 

(スポーツとその指導に明け暮れたティーチャさんが、お笑いの世界に足を踏み入れたきっかけとは?【次ページ】)