小島よしお ピンチをチャンスに その根本にある圧倒的なポジティブ・シンキング
一発屋予備軍から子供たちのヒーローに
小島よしおと言われて多くの人が連想するのは、海パン一枚の姿で「そんなの関係ねえ!」というフレーズを繰り返しながら踊る奇抜なパフォーマンスだろう。
そのギャグで小島が世に出たのは2007年のこと。当初は「一発屋予備軍」などと揶揄されることもあったが、それから15年が経った今でも、彼はしぶとく活躍を続けている。浮き沈みが激しいと言われる芸能界で、小島はなぜ生き残ることができたのだろうか?
大ブレークして流行語大賞を受賞
小島は早稲田大学在学中にお笑いサークルに所属していた。そのサークルから派生して、5人組のお笑いユニットが誕生した。小島もその一員だった。5人はコントグループ「WAGE」として芸能事務所にも所属して、プロデビューを果たした。のちに『キングオブコント』で優勝するかもめんたるの2人もWAGEのメンバーだった。
しかし、メンバーの方向性の違いから2006年にWAGEは解散してしまった。ここで小島は窮地に追い込まれた。なぜなら、メンバーの中でネタ作りを担当していたのは小島以外の人だったからだ。小島は、自分でネタをまともに作った経験もないまま、1人で放り出されてしまった。
それでも、お笑いが好きだった彼はピン芸人として再起を決意。そして、自分の武器は何なのかということを必死で考え抜いて、「そんなの関係ねえ」のネタを生み出した。2007年にこのネタで一躍ブレーク。年末には『ユーキャン新語・流行語大賞』のトップテンにも選ばれた。
子供にターゲットを絞る
裸同然の姿で演じる勢い任せのパフォーマンスは、当時から賛否両論だった。彼の面白さを理解できない人からは「どうせすぐ消える」「一発屋になる」などと批判の声が上がっていた。
しかし、小島はここで奮起した。「なまはげ伝道師」などのさまざまな資格を取ったり、新しいギャグやネタを試したりしながら、次の道を探っていた。そして、「子供をターゲットにする」という戦略を思いついた。もともと、小島の芸風は子供たちから絶大な支持を受けていた。
営業に行ったりすると、客席の中で小島の動きを真似る小さい子の姿を見かけることも多かったという。どちらかと言うと子供に人気があるという現状を踏まえて、徹底して子供に合わせたネタとキャラを作っていくことにした。これはかなり思い切った方針転換だった。
子供向けと銘打った単独ライブを開催して、客席の子供たちの反応を確かめながらネタを練り上げていった。また、子供をライブに連れてくるのは親の役目だ。そんな親たちが自分の子を連れて行きたいと思えるように、好き嫌いせずに何でも食べようというメッセージを込めた「ごぼうのうた」「ピーマンのうた」という歌を作ったりした。ここまで徹底して子供向けにシフトしていったことで、小島は確実に新しい世代の子供のファンを増やしていった。
WAGEが解散したときにも、人気が急落したときにも、小島はピンチをチャンスに変えて道を切りひらいてきた。その裏にあるのは圧倒的なポジティブ・シンキング。その前向きな明るさこそが小島の最大の武器なのだ。