ナイツ ヤホー漫才の発明から浅草演芸界の礎を築いた浅草の星

ナイツ ヤホー漫才の発明から浅草演芸界の礎を築いた浅草の星

ヤホー漫才で一世を風靡した浅草の星

ナイツといえば、いま最も人気がある漫才師のうちの1組だと言っていいだろう。彼らの漫才は若者からお年寄りまで幅広い世代に支持されている。浅草の演芸場で鍛えた漫才の技術には定評があり、芸人など同業者からの評価も高い。

ナイツの塙宣之は現在、一般社団法人漫才協会の副会長も務めている。名実ともに東京の漫才界を背負って立つ存在となっているのだ。ただ、彼らがこれほどの地位を確立したのはここ数年のことだ。

浅草で修業を重ねる

彼らは事務所の意向で浅草の寄席・演芸場を中心にして活動をすることになった。ほかの若手芸人とは違う環境に放り込まれてしまい、そこで自分たちの漫才の形を模索して試行錯誤することになった。

だが、ナイツはその環境でも腐ることなく、コツコツと地味な努力を続けていた。2000年にコンビを結成した彼らは、2001年に始まった『M-1グランプリ』にも毎年出場していた。最初のうちは早い段階で予選敗退していたのだが、少しずつ勝ち上がれるようになり、2007年には初めて準決勝に進出。その後、2008年から2010年までは3年連続で決勝に進んだ。

「ヤホー漫才」の衝撃

その飛躍のきっかけは、ナイツの代名詞とも言える「ヤホー漫才」を発明したことだ。塙がインターネットの「ヤホー」で調べた知識を披露したいと切り出すと、土屋伸之がすかさず「ヤフーね」と訂正する。そこから塙は間違いに間違いを重ねて、際限なくボケを繰り出していく。ここから彼らの快進撃が始まった。

浅草での修業は無駄ではなかった。観客の年齢層が高い寄席や演芸場で漫才を演じることで、幅広い世代に通用するネタができるようになった。また、同世代の芸人の多くはライブに出る回数が限られてしまうのだが、ナイツは常設の寄席や演芸場で毎日舞台に上がることができた。ほかの芸人よりも人前に出てネタをする回数を重ねることで、漫才の技術がどんどん上がっていった。

漫才協会に入る若手も増えた

テレビに出るようになってからは「浅草で修業をしていた」ということが1つのキャラクターになった。そんな若手芸人はほかにいなかったからだ。彼らは浅草の師匠たちのエピソードをテレビで披露して、世間に知られていない浅草演芸界の実像を浮き彫りにして笑いを取った。

今では漫才協会に入ってくる若手芸人も増えている。こういう状況になったのはナイツがその礎を築いたからだ。浅草演芸界を復興したナイツはいつしか「浅草の星」と呼ばれるようになった。

お笑いTVで、ナイツの関連動画を観る。