カンニング竹山 ピン芸人として生きていく自信を得たキレ芸の技術
キレ芸を武器に突き進む中年の星
カンニング竹山は、中島忠幸との漫才コンビ「カンニング」として世に出てきた。2000年代前半のお笑いブームの時期に、彼らは異彩を放っていた。当時のほかの若手芸人と比べても、芸歴と年齢がひとまわり上で、若手らしい華やかさに欠けていたからだ。
だが、カンニングはそれを逆手に取って開き直り、自分たちにしかできない「キレ芸」スタイルの漫才を編み出した。竹山が、目の前の観客や番組スタッフにひたすらキレまくり、怒りをぶつける。中島がいくらなだめても、竹山の怒りは収まらない。器用に小さくまとまったネタを演じる若手芸人が増えている中で、パワーで押し切るカンニングのキレ芸漫才には強烈なインパクトがあった。
漫才の実力が認められ、カンニングはスターダムに躍り出た。だが、そんな矢先に彼らを不幸が襲った。竹山の相方である中島が、2006年12月に病気でこの世を去ってしまったのだ。取り残された竹山は、1人で芸人として生きる決意を新たにした。
イジられてキレるポジションを確立
1人になってからも、竹山のキレ芸スタイルは基本的に変わらなかった。今までは、漫才やネタの中で怒る竹山をなだめるのが中島の役割だった。1人でテレビに出る場合、竹山にはツッコミ役がいない。そのため、タイミングを見計らってここぞというときにキレてみせる必要があった。そうやって竹山は、バラエティ番組での立ち回り技術を少しずつ磨いていった。
その中で新たに見つかったのが、後輩芸人からのイジられ役というポジションだ。特に、ザキヤマことアンタッチャブルの山崎弘也は、後輩であるにもかかわらず、竹山を容赦なくイジり倒していった。最初はひとつひとつ丁寧に対応している竹山も、次第にしびれを切らし、怒鳴り散らすことになる。それでもザキヤマのイジり攻勢はとどまるところを知らない。こうやって、他の芸人と絡みながら笑いを生み出す手法を身につけたことで、テレビタレントとしての竹山はさらに成長した。
単独ライブ「放送禁止」も話題に
また、竹山は舞台に立つ芸人としても、漫才に変わる持ちネタを模索していた。そんな彼は2008年から「放送禁止」という単独ライブを始めた。このライブでは、その名の通りテレビではできない危なっかしいネタが取り上げられている。竹山はこのライブを通して、ピン芸人として生きていく自信を得るようになったという。
今では情報番組のコメンテーターなど、知的な大人としての仕事も増えている竹山。幅広く活動する彼は、「キレ芸」を軸にしながらも、その枠にとどまらない「キレ芸の向こう側」を突き進んでいる。